系譜 柳生新陰流
新陰流兵法(しんかげりゅうひょうほう)は、鎌倉で念流を、また愛洲移香斎の陰流(または愛洲陰流)を、そして杉本備前守紀政から神道流を修めた上泉伊勢守秀綱の工夫により1560年代に成立した剣術の流派。もとの陰流に対し、新陰流という。
上泉伊勢守の弟子の柳生宗厳が伝えた「新陰流」は柳生家で伝承・発展したため「柳生新陰流」と称される。上泉の弟子には、宗厳以外にも、上泉の甥の疋田豊五郎(文五郎)、丸目蔵人佐(丸目長恵)、胤栄(宝蔵院胤栄)などがおり、丸目は「タイ捨流」、胤栄は「宝蔵院流(槍術)」をそれぞれ興して、新陰流を発展させた。また、疋田が伝えた「新陰流」が現在まで伝えられている。
系譜
新陰流は上泉伊勢守より「無刀取り」の公案を課せられた柳生宗厳に伝えられ、柳生氏によって伝承されたため柳生新陰流の名で広く一般に知れ渡っているが、新陰流に対して分派を起こしたわけではなく流派名も変更はなされていない。本来「柳生」を冠した流派名は弟子筋の流派であり、たとえば、柳生宗厳の高弟であった柳生姓を許された柳生松右衛門家信より有地内蔵允元勝を経て、福岡藩に伝わった系統は「柳生新影流」と称している。ただし、武道学では、上泉信綱が伝えた内容と柳生氏が伝えるようになってからの内容の差異、あるいは柳生氏の系統とそれ以外の新陰流の差異を区分するため、「新陰流」と「柳生新陰流」を区別して使用することから、柳生氏が伝える内容を「柳生新陰流」と呼称することもある。
また、新陰流の元となった陰流とは交流があった様で、陰流の愛洲移香斎の出身地近くには柳生姓を名乗る人が多い。
柳生宗厳以降、五男の柳生宗矩の江戸柳生と、孫である柳生利厳(宗厳の嫡子柳生厳勝の次男)の尾張柳生とに分派する。また柳生宗厳の時代を特に大和柳生とも呼ぶことがある。 新陰流の道統は孫の利厳が慶長10年6月に三世として印可相伝し尾張柳生に伝わる。
江戸柳生からは柳生三厳(柳生十兵衛)、尾張柳生から柳生厳包(柳生連也斎)など天才剣士を輩出した。
ただし、開祖柳生宗厳からの「一国一人の同統」は尾張柳生に引き継がれた為、江戸柳生は分派に過ぎないとされている。
治以降も尾張柳生の剣は受け継がれ、皇宮警察で柳生新陰流を伝習するため(明治天皇の聖旨によるものと伝えられている)により、大正二年に第十九世・柳生厳周が宮内省済寧館へ出仕した。第二十世・柳生厳長は新陰流の拠点を名古屋から東京に移し、自らは近衛供奉将校団師範、武徳会全国各府県中央講習会講師などを歴任した。
太平洋戦争時、名古屋大空襲によって江戸時代以来の名古屋の道場が焼失してしまったが、昭和三十年に東京柳生会が発足し、活動を再開。昭和四十一年、二十一世の柳生延春が柳生会を継承。さらに平成十八年柳生耕一が二十二世を継承した。現在は「柳生会」が東京、名古屋、大阪などを中心に活動している。
これとは別に、十九世の流れをくむ独立した道場も(外部リンク)健在である。
皺文皮撓(蟇肌撓、ひきはだしない)という袋竹刀を稽古に用いる剣術として斯界にしられ、一部の稽古に枇杷製の先細な木刀をつかう
上泉伊勢守の弟子の柳生宗厳が伝えた「新陰流」は柳生家で伝承・発展したため「柳生新陰流」と称される。上泉の弟子には、宗厳以外にも、上泉の甥の疋田豊五郎(文五郎)、丸目蔵人佐(丸目長恵)、胤栄(宝蔵院胤栄)などがおり、丸目は「タイ捨流」、胤栄は「宝蔵院流(槍術)」をそれぞれ興して、新陰流を発展させた。また、疋田が伝えた「新陰流」が現在まで伝えられている。
系譜
新陰流は上泉伊勢守より「無刀取り」の公案を課せられた柳生宗厳に伝えられ、柳生氏によって伝承されたため柳生新陰流の名で広く一般に知れ渡っているが、新陰流に対して分派を起こしたわけではなく流派名も変更はなされていない。本来「柳生」を冠した流派名は弟子筋の流派であり、たとえば、柳生宗厳の高弟であった柳生姓を許された柳生松右衛門家信より有地内蔵允元勝を経て、福岡藩に伝わった系統は「柳生新影流」と称している。ただし、武道学では、上泉信綱が伝えた内容と柳生氏が伝えるようになってからの内容の差異、あるいは柳生氏の系統とそれ以外の新陰流の差異を区分するため、「新陰流」と「柳生新陰流」を区別して使用することから、柳生氏が伝える内容を「柳生新陰流」と呼称することもある。
また、新陰流の元となった陰流とは交流があった様で、陰流の愛洲移香斎の出身地近くには柳生姓を名乗る人が多い。
柳生宗厳以降、五男の柳生宗矩の江戸柳生と、孫である柳生利厳(宗厳の嫡子柳生厳勝の次男)の尾張柳生とに分派する。また柳生宗厳の時代を特に大和柳生とも呼ぶことがある。 新陰流の道統は孫の利厳が慶長10年6月に三世として印可相伝し尾張柳生に伝わる。
江戸柳生からは柳生三厳(柳生十兵衛)、尾張柳生から柳生厳包(柳生連也斎)など天才剣士を輩出した。
ただし、開祖柳生宗厳からの「一国一人の同統」は尾張柳生に引き継がれた為、江戸柳生は分派に過ぎないとされている。
治以降も尾張柳生の剣は受け継がれ、皇宮警察で柳生新陰流を伝習するため(明治天皇の聖旨によるものと伝えられている)により、大正二年に第十九世・柳生厳周が宮内省済寧館へ出仕した。第二十世・柳生厳長は新陰流の拠点を名古屋から東京に移し、自らは近衛供奉将校団師範、武徳会全国各府県中央講習会講師などを歴任した。
太平洋戦争時、名古屋大空襲によって江戸時代以来の名古屋の道場が焼失してしまったが、昭和三十年に東京柳生会が発足し、活動を再開。昭和四十一年、二十一世の柳生延春が柳生会を継承。さらに平成十八年柳生耕一が二十二世を継承した。現在は「柳生会」が東京、名古屋、大阪などを中心に活動している。
これとは別に、十九世の流れをくむ独立した道場も(外部リンク)健在である。
皺文皮撓(蟇肌撓、ひきはだしない)という袋竹刀を稽古に用いる剣術として斯界にしられ、一部の稽古に枇杷製の先細な木刀をつかう